06 笠森稲荷
向う横町の おいなりさんへ
一銭あげて ざっとおがんで
おせんの茶屋へ
腰をかけたら 渋茶を出した
渋茶よこよこ横目でみたら
土のだんごか 米のだんごか
おだんご だんご
と唄われたのは、絵師鈴木春信の描いた美人のおせんで有名な谷中の笠森稲荷ですが、当市内にもこれと同じ名のお稲荷さんが二つあります。
一つは高木の宮鍋佐一郎さん宅にある笠森稲荷で、もう一つは字は異なりますが、東大和市駅の高架のそばにある瘡守稲荷(かさもり)です。天保五年に発行の御岳詣りの道中記である『御岳管笠』(みたけすげがさ)にここの稲荷が描かれています。芋窪から出てこのあたりで酒屋を営んでいたという乙幡氏の勧請された稲荷でしょうか、明治十年丑二月初午・施主乙幡徳左衛門と刻まれております。
一方高木の笠森稲荷は前述の宮鍋さんの祖父にあたる方が祀られたものです。宮鍋さんの祖父は前述の瘡守稲荷のそばの青梅橋のたもとで馬宿をしていましたが、病にかかり瘡守稲荷にお参りをしたところ治ったので、住いのある高木にも同じお稲荷さんを祀ろうと、天保七年に伏見稲荷の別当寺である愛染寺から勧請してきたのだそうです。こちらの方も大変に霊験あらたかでどんな病気でもここを訪れて「カサで悩んでいます」と拝みますと必ず治ってしまうということです。これを伝え聞いて、かなり遠くからもこのお稲荷さんにお参りに来る人があったそうです。
祈願する時には、唄の文句のとおりまず土のだんごを五つ供えます。そして願がかなうと今度は米のだんごをこしらえてお礼に供えるのです。病気が治ったのを喜んでお餅をたくさん供えていかれた稲城の方もあります。
こうして人々に頼られた二つのお稲荷さんも、時が経ち医術が普及するにつれて、だんだんと役目が少くなってきました。青梅橋の方は、先ごろまで「あをめはし」と刻まれている橋の欄干が残っていましたが駅の改築と共に整地された緑地の中に納められて、お稲荷さんと桜の古木だけが高架の下で昔の面影をとどめています。
昭和五十六年に新しい鳥居が奉納されるなど、駅の近くにお住まいの宮寺さん等数軒で守られています。高木の笠森稲荷には今でも祈願をする人がいらっしゃるようで、真新しい土のおだんごがパックに入れて供えてあるのを見受けます。十年程前までは所沢のひな忠という店で買い求めた絵馬が奉納されていましたが、作る人がいなくて新しい絵馬を納めているのを見なたことがないということです。
(p13~14)

新築された祠の由来書き
「奉納 正一位瘡守稲荷大明神の由来
江戸谷中笠森稲荷の分霊を勧請祭祀したもの。
伝承によると村内で悪病に罹った者があったので、明和元年(一七六四)二月初午の日に、愛宕山円乗院の二十八世法印英玄が勧請導師となって、この場所へ笠守(森)稲荷を勧請した。
その後、天保七年(一八三六)正月吉辰に、日本稲荷総本宮愛染寺住持十六代目知山より宮鍋定七が、この笠守稲荷社の山城国の、伏見稲荷本願所の愛染寺から、分霊を勧請祭祀し「正一位稲荷大明神」と称した。」
◎1764年 清水伝兵衛地蔵に 1763(宝暦13年)、明和年間(1764~1771)の銘あり
谷中笠森稲荷
名 所
錦絵開祖 鈴木春信碑(谷中3-1-2 大円寺)
笠森阿仙之碑( 同 上 )
伊東玄朴墓(谷中4-4-33 天竜院)
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補 足
鈴木春信は江戸の人で、享保10年から明和7年(1725~70)まで活躍した浮世絵画家である。当時の評判高い美人をよく描いた。
大円寺境内には永井荷風選文の「笠森阿仙(おせん)之碑」も建っている。お仙は江戸評判の美人で、笠森稲荷前の茶屋にいた看板娘であった。春信に描かれたことで美人の評判を高くした。ただし、笠森稲荷は谷中に3ヵ所あって、お仙の出ていた水茶屋「かぎ屋」はこの大円寺ではない。谷中の墓地が公共墓地になった後、明治6年(1872)に作られた功徳林寺がその位置である。笠森とはもともとは瘡守(かさもり)で、江戸時代には恐ろしい病気であった天然痘を治してくれるお稲荷さんという訳である。
なお、谷中三崎町は昭和42年(1967)の住居表示で、谷中二・三・四・五丁目へと分割編入された。
笠森お仙
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笠森お仙(かさもり おせん、1751年(宝暦元年) - 1827年2月24日(文政10年1月29日))は、江戸谷中の笠森稲荷門前の水茶屋「鍵屋」で働いていた看板娘。明和年間(1764年-1772年)、浅草寺奥山の楊枝屋「柳屋」の看板娘柳屋お藤(やなぎや おふじ)と人気を二分し、また二十軒茶屋の水茶屋「蔦屋」の看板娘蔦屋およし(つたや およし)も含めて江戸の三美人(明和三美人)の一人としてもてはやされた。
1763年(宝暦13年)ごろから、家業の水茶屋の茶汲み女として働く。当時から評判はよかったという。
1768年(明和5年)ごろ、市井の美人を題材に錦絵を手がけていた浮世絵師鈴木春信の美人画のモデルとなり、その美しさから江戸中の評判となり一世を風靡した。お仙見たさに笠森稲荷の参拝客が増えたという。
1770年(明和7年)2月ごろ、人気絶頂だったお仙は突然鍵屋から姿を消した。お仙目当てに訪れても店には老齢の父親がいるだけだったため、「とんだ茶釜が薬缶に化けた」という言葉が流行した。お仙が消えた理由についてさまざまな憶測が流れたが、実際は、幕府旗本御庭番で笠森稲荷の地主でもある倉地甚左衛門の許に嫁ぎ、9人の子宝に恵まれ、長寿を全うしたという。享年77。
現在、お仙を葬った墓は東京都中野区上高田の正見寺にある。
笠森お仙の碑
そこを過ぎるともう谷中。のぼる坂は三崎坂といいます。この坂の途中に大円寺があり、笠森お仙の碑があります。お仙は浅草のお藤、およしとともに「明和の三美人」呼ばれました。鍵屋という茶屋で働いていましたが、ある日突然駆け落ちして身を隠してしまったので、鍵屋はさびれてしまいました。主人の太兵衛は血眼になってお仙を探し、やっとさがしあてると養父の身でありながら道ならぬ情念を燃やし、嫉妬に狂い、お仙の喉笛を噛み切って殺してしまったといいます。
現実には、お仙は笠森稲荷の祭主、倉地政之助と結婚していたのでした。倉地氏はお庭番―幕府の隠密で、桜田御用屋敷に住んでおり、御用屋敷は外部と遮断されていたので、お仙の結婚は外部に隠されていたのでした。実際のお仙の結婚生活は幸せだったようで、59歳で夫と死別するまで十余り人の子を成したといいます。
笠森お仙の碑がある大円寺境内には笠森稲荷が勧請されていますが、お仙のいた茶屋のあった笠森稲荷は本当はこの寺のではなく、感応寺の中門前にあったものらしい。
笠森お仙の碑は、永井荷風、笹川臨風らによってたてられましたが、彼らは、大円寺の笠森稲荷前にお仙がいたと勘違いしたもののようです。お仙の墓所は中野の正見寺にあります。
当時の谷中
今の谷中からは想像がつかないが、その頃の谷中では墓地のあちこちから嬌声と、線香の匂いに混じって白粉の香りが立ち込めていたかと思うと、落語の「安兵衛ぎつね」ではないが、まるで狐にでも化かされたような気がする。これほど稠密な人口を有している東京においてすら、墓参の人は疎らでしかないのに、当事の谷中とりわけ感応寺(現・天王寺)界隈は、富くじと水茶屋で江戸っ子の、とりわけ坊さんの鼻の下を長くしていた。
坊主が客の「いろは茶屋」
当時お仙ばかりが美人ではなかったろうに、これほど有名になったのは当時寺町で繁華な場所ではなかった谷中には、一名「いろは茶屋」と呼ばれた茶屋が集まっていた。実際47軒も軒を連ねていたわけではないだろうが、さほどに多かった。茶屋には客として主に坊主たちが集まっていた。今も昔もなまぐさ坊主は変わらない。水茶屋というのは本来渋茶を売るのが目的ではなく、もっぱら春を売るのを本業としていた。その上客が谷中では専ら仏の教えをつかさどる坊主だった。当時の川柳に
武士はいや 町人すかぬ いろは茶屋
と、坊主だけを相手にする模様が読み取れる。
もちろん美人を眺めるだけで帰る客も多かった。その場合でもふつうの渋茶屋なら8文(約200円)も置けば充分なところ、50文、100文(1000円~2000円)と置くのが客としての常識だった。